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しかしながら、そこで現実を激しく撃つものとして呼び出された心霊実話テイストの「幽霊」たちは、我々にとって最も身近な「人間」の姿をしていながら「人間」ではないというこれ以上ない恐ろしさによって最強であることを実証しつつ、まさにその最強ゆえに何処にでも引っ張り出され、人間たちの流通・消費の中に組み込まれていった。あたかもかつて妖怪たちの栖であった「異界」が人間界へと組み込まれていったように、「幽霊」はいわば妖怪化した。 よってホラーはかかる現実とも戦わねばならなくなったのである。そこで我々は考えるのだ。そもそも「怖い」とは何であったのか。「幽霊」がヌッといることで示そうとした「あの」感触は? 近世江戸文学研究においてはしばしば「それぞれの時代の幽霊観はその時代の地獄観に連関する」と指摘される(高田衛氏らの研究による)。幽霊の最強たるさまは、『四谷怪談』『累が淵』『皿屋敷』『牡丹灯籠』ら近世怪談の底力を思えば、今日のホラー・ブームがその末裔であることは明らかだろうし、そこに繰り返し登場するのがことごとく「女」であることは、近世から今日まで我々が抱き続けた地獄の諸相を秘かに告げているように思える。そして「地獄」とは現実から“なかったことにされた”ことどもなのだ。 この胸がざわめく感じ、何者かにジッと指さされているようなこの感覚を、我々はもう一度、心霊実話テイストの「幽霊」の回路を通してではなく、別の回路の探求によって呼び起こしてみよう。「運命」という眼に見えない力と向き合って(『運命人間』)、あるいは「女」ならざる「女」を出現させて(『稀人』)、さらには古典怪談を犯罪活劇に甦生させて(『月猫に蜜の弾丸』)、そして人間にとって「悪」とは何かを突き詰めてみて(『ソドムの市』)。それが「幽霊」のごとくに判りやすい「怖さ」をもたらすかといえば、いや、むしろ我々はそうした判りやすさを疑おうと試みている。「怖さ」とはそうそう判りやすく消費されるためのものではない。にもかかわらず、人はそこに否応もなく何かを感じ、ある時ふとそれが何を告げていたかに気づく。そこに現実へのプロテストとしてのホラーは存立する。それはおそらく理非を超えるが、しかしそれ故に画面を見つめる感性を刷新し続けるのである。
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■『運命人間』 ■『月猫に蜜の弾丸』 |